言論の自由 表現の自由

草たちが、みちばたの地面いっぱいにはえている。もうさむいふゆなのに、枯れ草たちとともに、みどりの草たちも、げんきにそだっている。

ふゆの朝、日の出のときには、とりたちが葉をおとしたむくのきやえのきの大木の枝にとまって、みんながひがしのそらをながめている。

そして、日がのぼると、いっせいにとびたって、チュッッチュチュッチュと、しゃべり、さえずりだす。

カラスもやかましく、むらのカラスたちの声は、それぞれ、すこしはききわけられる。それぞれのユニークな声と、鳴き方をもっている。

そして、草も鳥も、自由に、生い茂り、話し、さえずり、いきている。

 

 さて、日本国憲法にこうある:

 

 『第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保証する。

  2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。』

 

 日本国憲法の主語は「わたしたち日本国民」なので、この第21条は、わたしたちが、一切の表現の自由をわたしたち自身に対して、憲法によって保証している。

 

 これは、わたしたちが自由に表現することが、日々のくらしにとって必須であるから、国や政府や権力に対して、このように宣言している。ひるがえってみると、日々のくらしのなかで、わたしたちは自由にものごとを言い、話し、いろいろなやりかたで表現して、平和に、豊かにくらしている、ということが、その基礎となっている。

 

 もし、わたしたち自身が、わたしたち自身の日々のくらしにおいて、言いたいことが言えず、考えや感情を素直に表現することができないなら、この憲法第21条の表現の自由の保証は、いったいだれがするのだろうか?

 

 いま、政府をはじめとする権力システムが、非常に露骨に言論の自由を制限してきている。地方自治体をはじめ、大なり小なりの公的機関が、集会、言論、表現の自由を押さえ込んできている。

 

 しかし、それらのことは、もし、わたしたちが、日頃のくらしのなかで、普通にタブーなく、様々なことをはなし、議論し、表現することを、自由におこなっていたなら、おこることは非常に難しいことだろう。

 

 大手マスコミ、大企業である新聞、雑誌、ラジオ、テレビなどのマスコミは、もともと表現の自由をもっていない。大企業なのであるから、日本の会社機構を知っているなら、大手マスコミが表現の自由を行使できるなどと考えるのは、愚かなことだとわかる。だから、マスコミが言論や表現の自由を守って、わたしたちと共にあるとはかんがえられない。真の情報は、わたしたち個人から個人へとつたわる生の声によって得られる。ここに、わたしたちがわたしたち自身に表現の自由を保障している意味があり、根拠もある。

 

 わたしたち日本人にとって、日々のくらしのなかで、自分たちの考えや感情を自由に表現することは、大変むずかしいことになってしまっている。すぐにおもいつくその例のひとつは、福島第一原発事故と放射能災害について語ることが、日々のくらしの非常におおくの場面でタブーになっていることだ。それは、だれがそうしているのでもなく、わたしたち自身がそうしている。政治について語り、話し合うことも、それがどんなにわたしたちのくらしにとって大切なことであろうと、これもタブーとなっている。そのほか、あれもこれも話してはダメ、表現してはダメ。しかし、これをわたしたち自身がやめ、毎日こつこつと表現することを実現していかないと、憲法第21条でわたしたちに保証されている表現の自由が、実際はわたしたち自身によって保証されていないことになる。そして、権力によって、いともたやすく、それが公的に力をもつことになる。

 

 わたしたちは、まず、福島第一原発事故の現実について話しだすことにしよう。まずこのタブーをうちやぶろう。そして、戦争や政治について、そして、もっとふかいタブーである天皇制について、自由にはなしはじめよう。そうすることではじめて、わたしたちは、わたしたちの日本国憲法をわたしたちのものとしてもつことができ、ファシズムと、戦争を回避し、権力システムによって支配されることをとめることができる。みんな、それぞれ、がんばろう。