いのちとこころの根っこにあるもの

いのちとこころの根っこにあるもの。それは、根がその中をはっている大地です。

 その大地のうえで、どのようにいきているかは、いろいろですが、その大地のうえでいきているという事実は共通です。

 さらにいえば、大地があって、そのうえで、たとえば人間が独立した存在として動きまわりいきている、という印象は、実際とはちがっている。実際は、大地とそのうえを動き回っているという人間は、ひとつの不可分の存在で、人間がうごいているとき、大地も動いていて、つねにあたらしく大地と人間などをふくみ全体が自らを創造しているというのが、正しいでしょう。

 このような世界の見方は、世界といういれもののなかにものがある状態で存在しているという古典的なかんがえを否定している現代物理学の世界像から描かれるものだとおもいます。しかし、そんなむずかしい理論は必要ではなく、しずかに内省と考えをふかめていったり、直観をとぎすませば、おなじような世界観にいたるでしょう。

 

 そのようなことをかんがえていると、ふと、「道元の正法眼蔵」をおもいだします。

 

 「山水経」にはこうあります。

 

 『太陽山楷和尚示衆云、「青山常運歩、石女夜生児」。

 山はそなはるべき功徳のキケツすることなし。このゆゑに常安住なり、常運歩なり。その運歩の功徳、まさに審細に参学すべし。山の運歩は人の運歩のごとくなるべきがゆゑに、人間の行歩におなじくみえざればとて、山の運歩をうたがふことなかれ。

 いま仏祖の説道、すでに運歩を指示す、これその得本なり。「常運歩」の示衆を究辦(きゅうはん)すべし。運歩のゆゑに常なり。青山の運歩は其疾如風(ごしつにょふう)よりもすみやかなれども、山中人は不覚不知なり、山中とは世界裏の花開なり。山外人は不覚不知なり、山をみる眼目あらざる人は、不覚不知、不見不聞、這箇道理(しゃこだうり)なり。もし山の運歩を疑著(ぎちゃ)するは、自己の運歩をもいまだしらざるなり、自己の運歩なきにはあらず、自己の運歩いまだしられざるなり、あきらめざるなり。自己の運歩をしらんがごとき、まさに青山の運歩をもしるべきなり。』

 

 いのちとこころの根っこにある大地も常運歩であり、そのなかにあるいのちとこころも常運歩ということは、いいかえると、いのちとこころも、それが根ざす大地も、常にあたらしくうまれているということだとおもいます。わたしたちは、つねにあたらしい世界にうまれかわっていることになります。

 このあたらしい世界にうまれるかわるということを、わたしは、「わたしがあたらしい世界にいく」と自覚しています。

 このあたらしい世界に常にうまれかわるとき、つまり、わたしたちがあたらしい世界にいくとき、わたしたちの意思や意志はかかわっているのでしょうか? もちろん、ひじょうにたいせつなかかわりかたをしています。わたしたちが、いまなにをするかによって、生じてくるあたらしい世界がきまってくる、あたらしい世界にいくことになる。石や木や風や鳥たちがいまなにをするかによって、生じてくるそのあたらしい世界がきまってくる。このように、そんざいのすべてのありようによってあたらしい世界がつねに生じている。

 じぶんひとりが何をしようと世界がかわるわけではない、ということはなく、しぶんがなにをするかが、あたらしい世界を出現させている。

 そこで、ひとりひとりがなにをかんがえ、なにをのぞみ、なにを意志し行動するかということが、世界がどうあるかをきめている。

 

 このことをかんがえると、「正法眼蔵」の「現成公案」のうつくしいむすびのはなしが、また格別におもえてきます。

 

 『麻浴山宝徹禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、「風性常住、無処不周なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ」。

 師いはく、「なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらず」と。

 僧いはく、「いかならんかこれ無処不周底の道理」。

 ときに、師、あふぎをつかふのみなり。

 僧、礼拝す。

 

 仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし。常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬをりもかぜをきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。風性は常住なるがゆゑに、仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を参熟せり。』