戦争に行かずにすんだ団塊の世代のわたしに、わたしから

戦争に行かずにすんだね。ただ、まだ日本の土地が戦場になる可能性があるから、そうなったら、70歳すぎても戦争のまっただなかにほうりこまれるから、過去形はまだはやいけどね。

  ぼくたちが若い兵士として、それがどこであれ、戦場におくりこまれて、そこで戦争の駒として、殺し合い、破壊しあうことをせずにすんだのは、それは、太平洋戦争で戦って死んだ、あるいは生き残った、ぼくたちの父母たちが、ずっと守ってくれたからだよ。憲法9条があったからではないよ。それが証拠に、憲法9条があっても、それを法律的に守る日本の裁判所は、戦後すぐに、裁判所はそれを守る役目をもたないと当時の最高裁判所田中耕太郎長官が砂川事件の判決で宣言しているのを知ってるだろう?それに、いまだって、憲法9条はそのままあるけど、政府と国会がそれをやすやすと破って、無視しているものね。

  ぼくたちを戦争からずっと守ってくれていたのは、ぼくたちの父母そして祖父母たちが、ひとりひとりが、絶対に二度

と戦争はさせない、二度とこどもたちを戦場におくりださないと、心の底から決意し、その決意を絶対にゆずらなかったからだよ。死んだひとたちの意志と、生き残ったひとたちの意志が、ぼくたちを絶対的に守ってくれていた。

  生き残ったぼくの父は、インドシナ戦線を生き抜いて、それも突撃命令がでたときにたまたまマラリアで動けなかったからだそうだが、一生のうちで、ただ一度だけ、それもほんの少し、戦争についてぼくに語ってくれた。それも、彼の属した部隊が彼を残して全員突撃で死んだインドシナでの戦いの日々ではなく、敗戦後の引き揚げ船がアメリカ軍に爆撃されて船が漂流したときの、その爆撃の一瞬のことだけ。その語られた場面は、いまもぼくの脳裏に焼き付けられている。そして「戦争はあかん」、「戦争は二度としたらあかん」、とだけ言っていた。

  母もけっして戦争については語らなかった。父と同じように、「戦争はあかん」、「戦争は二度としたらあかん」とだけ言っていた。晩年、ぽつんと、「あにさんは、かわいそうやった」と言ったのが印象的だった。母の兄は硫黄島の最後の突撃でなくなったそうだ。祖父母は、死ぬ間際まで毎日、その息子のために、神棚にガラスコップ1杯の水をささげていた。

  母方の祖父母は、けれども、原爆の日々のことはよく話してくれた。実家は尾道の向島だったので、親戚のひとが広島から原子爆弾に被爆して、命からがら向島まで逃げてきたときの様子、それも、ぼくの脳裏にやきついている。こどものころ繰り返し見た夢は、原爆が目の前で爆発する夢だった。また原子爆弾が落ちてきたらどうしよう、とよく母にすがったものだ。そのとき決まって母がいうには、「そのときはみんなが一緒に死ぬのだからだいじょうぶ」だった。

  いま世界は核戦争にむかっている。ぼくたちがこどものころや若い頃にも、いまとおなじように戦争に向かおうとする人々はいた。日本の戦後民主主義の裏では、戦前からしっかり生き残った戦争を推進してきたひとたちが、戦前とおなじ権力支配を図っていた。それにもかかわらず、ぼくたちが自由で平和なくらしができ、戦争に行かずにすんだのは、ぼくたちの父母や祖父母たちが、絶対的に強かったからだ。なぜなら、権力者たちではなく、ぼくたちの父母や祖父母たちが、実際に戦争を戦った人たちだから、ほんとうに、絶対に、二度と戦争はしないと、外面はいかにやわらかくとも、命かけてぼくたちを守ってくれたからだ。

  そんなぼくたち団塊の世代、戦争から引き揚げてきた若い兵士たちと故郷で生き抜いてきた娘たちの最初のこどもたち、そんなぼくたちは、知っている、きっと知っている。ぼくたちの若い父と母、その父母である祖父母たちが、けっして語りはしなかったが、そのこころの奥底に確固としてあった決意を。

  日本もいま、戦争にむかって歩んでいる。それを推進している人たちがいる。それがあからさまになったのは、2011年3月11日の大震災による福島第一原子力発電所の爆発によってだ。それによって、日本国が壊れたからだということはまえのブログにかいた通りだ。団塊の世代のわたしよ、父や母や、祖父や祖母がわたしを守ってくれたように、わたしもこどもたちや孫たちを守っているだろうか?こころの奥底にしっかりと受け継いでいるあの意志をもうみつけただろうか?